戦               争

 戦争といっても、実際に空爆されたり逃げ回ったりしたわけではありません。でも、遠くで聞こえた爆弾の音、兵士が民衆に向って何かを話して士気が高まっていたことは事実でした。人間は、死に直面すると「死にたくないから逃げる」のではなく、「生きるために逃げる」というのを実感しました。

 8月9日の早朝に123カ国目アルメニアへ入りました。空港でビ
ザが取れるのですが、たくさんの人が並んでいて取得と入国に2
時間近くかかりました。ビザ代は観光ビザ15000ドラム(約50ド
ル)でした。ぼくは3日間のトランジットビザを10000ドラムで取得
しました。
 入国審査を待っている間、ある外国人の怒号が聞こえてました。
でもその理由はすぐにわかりました。グルジアへ行く予定の人がア
ルメニアへ着いたということでした。理由はトビリシ行きの飛行機
が出なかったから・・・そう、戦争が始まったからです。
 エレバンはきれいな町で水がいたるところでふき出しています。
この日はエレバンと近郊の町へ出かけました。マルシュルートカが
様々な町を結んでいるのでとてもわかりやすいです。(文字は読め
ませんが番号がきちんと書いてあるからです。)
 10日の朝、エレバン駅にトビリシ発の夜行列車が到着していま
した。1日おきの列車はちゃんと運行していました。その列車に乗
っていたイギリス人に話を聞くとトビリシは最悪とのことでした。爆
弾も落ちたと言っていました。
 この日もエレバン近郊や市内を歩き夕方駅に行きました。すると寝台が空いているとのことでした。値段は5000ドラム(約17ドル)だったのでトビリシへ向かうことにしました。なぜって?グルジアを抜けてアゼルバイジャンへ行かないと帰りの飛行機に乗れないからです。アルメニアからアゼルバイジャンへ抜けたら?この2国は仲が悪いので国境は抜けられないのです。仮に抜けられても国境ではビザが取れないので入れません。それにぼくはアゼルバイジャンのバクー空港でビザを取得する予定でしたからグルジアへ向かうしかないのです。(トビリシ〜バクーまでの航空券を日本で買いました。値段は手数料込みで16000円くらいでした。)
 賛否分かれるところですが自己責任のもと列車に乗りました。19時定刻に列車はエレバンを発車しました。途中で全然見られなかった「アララト山」が雲ひとつなくはっきりと見えました。まるでぼくの出発を見送るように・・・
 列車はとてものんびりと走ります。ぼくの4人部屋は誰も乗ってなく貸切状態でした。夜はけっこう冷えました。そして8月11日の早朝、係官がやってきてアルメニアを出国しました。しばらく走って次の駅に着くといよいよグルジア入国です。パスポートを持っていかれしばらくするとパスポートは戻ってきました。入国スタンプを押されて。こうして124カ国目のグルジアへ入国したのです。
 2時間ほど停車したあと列車は出発しました。
 そして9時半ごろにトビリシへ着きました。駅前は戦争の危機感は全然ありませんでした。地下鉄に乗って旧市街にあるホテルへ向かいました。そのホテルはガイドブックよりも値上がりしていたのでやめました。
 しばらく歩くと旅行社がありました。そこに入ると次のようなことを言われました。
 @ツアーなどはやっていない。
 A空港が閉鎖され飛行機は飛んでいない。
 B早くこの国を出なさい。
 いちばんのショックはAでした。なぜなら飛行機が飛んでない以上アゼルバイジャンのビザが取れないからです。旅行社の人はアゼルバイジャン大使館へすぐに行くようにすすめ、タクシーをひろってくれました。そしてアゼルバイジャン大使館へ向かいました。
 大使館へ着いたのは午前11時30分でした。まだビザの申請が終わる12時には間に合っていました。でもたくさんの人が並んでいます。しかも代理で来たようでその手にはたくさんのパスポートが握ってありました。そうなかなか進まないのです。あっという間に大使館の申請終了時刻の正午をむかえました。でも大使館は閉まりませんでした。そして、その間ずっと待ち続けました。まるで「杉原千畝」が発給するビザをユダヤ人が待ち続けたように・・・
 申請ができたのは5時間後の午後4時でした。1枚の紙切れを渡され銀行へ支払いに行けばビザを渡すとのことでした。普段は申請から3日かかるのに即日発行というアゼルバイジャン大使館の心遣いに感謝しました。しかも銀行へ行かなくても、その場でビザ代の40ドルを受け取ってくれ、すぐにパスポートを渡してくれました。これで、アゼルバイジャンへの道が開かれたのです。
 大使館で待っている間、2人の日本人と並びました。1人はフランス人の夫と旅をしている女性、もう1人は自転車で世界中を旅している男性でした。その男性が泊まっている「ネリダリの家」へ行くことにしました。1泊15ラリ(約12ドル)で泊まれます。泊まっているのはぼくを含めて3人でした。なぜなら他の人はもうグルジアから脱出したので・・・それにここは日本人が多く泊まるということで、アゼルバイジャンの日本大使館からよく連絡が入るということなので決めました。
 夜になるとさっそく電話がかかってきました。内容はまだグルジアを出ていないのか、早く出るようにとの内容でした。ぼくは名前をつげ(身分を明らかにするため)、アゼルバイジャンへ向かうようにするということを伝えました。
 さらに午後9時ごろに電話がかかって来ました。内容はロシア軍がそこまで来ていて、アルメニアへ向かう車を用意したので乗るようにという連絡でした。ぼくは航空券がバクーからなのでアルメニアへは行けないと伝えました。すると「ということは、アルメニアへ行く車には乗らないということですね?あとは自己責任になりますけどいいですか?」と言ってきました。ぼくはアゼルバイジャンへ向かうようにするのが筋だといいました。なぜならグルジアには日本大使館がないのです。それにアルメニアにも日本大使館がないのです。でもアルメニアはロシアの日本大使館の管轄なのです。聞きようによっては自分たちの管轄から早く出て行ってくれとも聞こえました。それを伝えると改めて「大使館の要請を断ったということですね。あとは自己責任になりますよ。」と強調されましたが断りました。
 午後11時前に車が来ましたがやはり断りました。
 ここでまた賛否が分かれることですがぼくは自己責任のもと断りました。もちろん残りの2人もです。
 車が去ったあと3人でスコッチで乾杯して話を盛り上げました。
2人とも自転車で世界旅行をしています。1人は5年くらい旅をしているそうです。このあとトルコへ向かうので要請を断りました。なぜならアルメニアとトルコは仲が悪く国境は閉鎖されているからです。だから次の日のバスでトルコへ向かうと言っていました。
もう1人は12年間旅をしているそうです。彼はアゼルバイジャンへ入って、そこからトルクメニスタン(またはカザフスタン)へ向かい少しずつ日本へ向かっているということでした。
 この間にもロシア軍はトビリシへ向かっているのか・・・空爆はあるのか?そしてあるの朝はあるのか?・・・様々な憶測が飛び通いました。でもこれだけは言えました。ぼくたちは死ぬためにここへ残ったわけではなくこれから進む道を選ぶためにここへの残ったこと、つまり生きるためにこの選択をしたということ・・・3人でそれを確かめ合いながらトビリシの夜は更けていきました。
 8月12日の朝を迎えました。いつもと同じような朝でした。そして生きていることを実感しました。午前8時ごろに日本大使館から電話がありました。内容は外務省から「退避勧告」が出たということでした。そのために日本大使館として日本人の保護と護送をするというものでした。護送の場所はアゼルバイジャンでした。つまり「退避勧告」ひとつで大使館の対応が180度変わったようにも思えました。正午にまた連絡をするというのでそれまでトビリシの町へ出ました。そしてインターネットカフェで情報の収集をしました。
 退避勧告は間違いありませんでした。それとロシア軍が近くに来ていること、停戦協定に合意したことなどがあげられました。退避勧告を出すのは少し遅いような気がしました。事実、EU諸国は10日には観光客をまとめて護送したということでしたから。もちろん周辺諸国へのビザも無料で申請してもらったということです。
 正午に宿へ戻るとイスタンブールへ向かう人はすでに出ていました。バスが走っているという情報を得たからです。それにもしバスが出なかったら連絡をするということでしたが連絡がなかったのできっとバスに乗れたのでしょう。
 大使館からの連絡は午後1時でした。それまでは電話がなかなかつながらなかったようです。もう1人の彼は自転車に荷物をつけて出発準備をととのえていました。電話の内容は車を手配するので乗るようにということ。アゼルバイジャンの国境で大使館員が待つということ。そしてバクーからの車を待ってそれに乗ることでした。
 車は30分後に来ますと言いながら1時間半は来ませんでした。その間に遠くで爆発音がしました。たぶんミサイルが着弾したのでしょう。やっと車が来てぼくたち2人は乗りました。そしてグルジアの国境へ向けて約60キロメートルを走りました。国境はたくさんの人と車でした。車の大半はグルジアナンバーでした。おそらくアゼルバイジャンへ避難しているのでしょう。
 こうして約2日間弱のグルジアの旅は終わったのでした。
 国境は「レッドブリッジ」という名前がついていました。でも橋を渡ることはなく川に沿って国境がありました。もともとソ連時代には国境はなかったのですから、国境のゲートはとても狭く車が離合するのがやっとでした。
 グルジア出国はおまけしてもらって車のゲートから出してもらいました。
 でもアゼルバイジャン入国は狭いゲートの部分でかなり待ちました。グルジアから出る人々が並んでいたのもありますが順番を守らない人々が多いのも理由のひとつでした。最後は国境の警官が怒鳴ってしまうくらいでした。
 何とか入国するとそこに大使館員が待っていました。とても若い方でした。朝の3時からここで待っていたそうです。
 ぼくたちの乗る車はバクーから向かっているとのことで深夜までここで待ちました。その間に日本大使館の車が1台グルジアへ向かっていました。「退避勧告」が出たのでグルジアへ入り残留している日本人を探したり会ったりするとのことでした。
 カフェで寝ながら過ご、深夜過ぎにようやく車が来ました。
 ぼくたちはその車に乗って首都バクーへ向かいました。疲れてすぐに寝てしまい、朝になって起きましたがバクーはまだ先のようでした。バクーまで500kmくらいあるからです。しかも車の数が多く、バクーに近づくにつれて渋滞もありました。
 日本大使館に着いたのは午前11時30分でした。大使館の方が出迎えてくれました。
 少し休みアゼルバイジャンの情報をいただいたあと、お礼を言って大使館をあとにしました。
 本当にありがたいというよりも迷惑をかけたという気持ちでいっぱいでした。
 たとえ自分独りの旅であっても、実はたくさんの人に助けてもらっているということを改めて考える機会になりました。